こんな言葉をある本で見つけて共感した!
「成功する人間は、自分の力で人生という車の運転をする。成功できない人は、運転を他人に任せ、自分は後ろ席に座ったままでいる。」
この言葉との出会いが、今である。私の人生という車は51歳の時に自分で運転し始めた。今も運転している。50歳までは運転を他人に任せて後ろの席で景色を眺めていた。自分で車を運転できるという自信がなかったし、怖かった。
定年退職後のシニアは人生を他人に任せて生きて行く思考が強い。自分で人生を切り開いていく気持ちがない。人生の選択肢があるのに挑戦していない。人生の自動車は自分で運転しないと楽しめない。行きたい場所に行くには自分で人生の車を運転することである。
51歳の時に”人生と言う名”の自動車を自分で運転することにした
会社から給与を頂いている限り財は築けないと昔から言われていた。リスクは会社持ちだから、給与額は低い。生かさず、殺さずの金額だ。会社員はその生活が当たり前と信じ込み、それ以上の生活が有ることに気が付かない。リスクよりも安心を取っているからだ。
私達の学校教育は右へ習えで安全な道を教えていた。その他のオプションが有ることを教えられなかった。良い高校、良い大学、大企業への就職が出世街道であった。その道を外れたら、人生の敗者という世間体があった。
誰もが敷かれた出世街道のレールを走れない。どうしても落ちこぼれが出る。落ちこぼれた人は自分で人生の車を運転することになる。リスクが有るが、それしか生きる道がない。そこで、人生には出世街道よりも醍醐味が有る人生オプションを見つけることになる。
財を成した者
財を成した人は、必ずしも良い高校、良い大学、大企業への就職というレールを走っていない。たまたま、出世街道から外れたお陰で学校が教えてくれなかった人生と言う車を自分で運転する機会を得たのだ。上手く運転した人が財を成している。当然、事故を起こして傷を負った者もいる。
人生と言う車を他人任せに運転させる生活は本当のリスクをベールで隠した生活である。会社員はそれに気が付いていない。気が付こうとしない。それに気が付くのは定年退職の年齢になってからだ。または、会社が倒産した時になる。
定年退職をした後も他人が運転する自動車の後ろ席に座ろうとするシニアは、近い将来に自分の人生という車を運転しなければならないという現実を知ることになる。年老いて財を成すのは難しい。運転技術が未熟だからだ。トレーニングをするにしても体力、気力、時間の面で制約がある。
一番欠けているのが「勇気」
子供の頃、初めて自転車を乗ろうとした時の状況と同じである。転ぶのが怖くて上手く乗れない。何度か転んで体で痛みを味わってやっと自分で自転車に乗れるようになる。子供は学習能力が高い。運動能力も有る。直ぐにコツを覚える。
シニアが人生と言う車を自分で運転し始めると失敗するのだが、小さい失敗であれば、なんども失敗できる。傷が浅ければ、運転技術も失敗の数だけ身に付けられる。失敗することを前提に事業プランと運転資金を準備するだけでよい。それが分からないためにギャンブルをするシニアが多くビジネスに失敗する。
「人生という名の自動車」を運転するか、しないか選択
65歳で会社を卒業したシニアはなぜか再就職先を探す。他人が運転する自動車の後ろ席に座って安心した生活を続けたいからだ。他人が運転する車よりも自分が運転する車のほうが自由があり、本当にやりたいことができるという事実を知らない。
年齢という障害が自動車の後ろ席に座らせない。老いたシニアは後ろの席に座る権限がない。そんな現実に直面して人生には自分が運転できる車があるということに気がつく。運転免許証を取得するまで何度も失敗しながら自分の自動車を運転できるようになる。
シニアの運転免許証は「勇気」である。新しいことに挑戦する「勇気」があるか、無いかである。自分が運転する車は運転経験が物を言う。人生の終盤に自動車を運転しようと思っても老化でうまく運転が出来なくなる。できるだけ早いうちに自動車の運転を練習すべきである。
定年退職時が最後の機会になる。勇気を持って自動車を運転してみることである。失敗を前提にして失敗から運転のコツを見つけることが重要である。
結論
人生のリスクを取るタイミングが今後の人生を決める。財を成したい人は早めに人生のリスクを取り、失敗を経験しながら車の運転技術を磨いて成功する。