老人は生きている意味を見失うのか?

80歳を過ぎた頃、身も心も老化が進んで「生きている意味を見失う」老人が増えてくるのではないかと想像している。知人や友人、そして、伴侶が他界してしまうとこの世に留まる理由が見えなくなる。何か生きる目的があれば、それに向かって残りの人生を費やす事が出来るのだが、そんな目的をもって生きている80歳以上の老人がどれだけいるのだろうか。

長生きは幸せではないかもしれない。生きる目的を失った老人にとっては、幸せが見えてこない。まだ、80歳ではないので本当の事はわからない。

私が80歳になった後の生活や人生観を想像してみる。残りの人生を楽しく生きる意味を見出さないと生きているのが辛くなるのは確かである。子供や孫が増えても一緒に時間を過ごすことが少ない場合が多い。同じ価値観でお喋りができる相手も少なくなる。何かに没頭して時間を使わないと生きている意味を見失う自分の姿が見えてくる。

15年後に80歳になる私は老人になる(生きていれば)

80歳を過ぎた自分の姿と生活風景を想像してみる。「孤独」という文字が全面に出てくる。家内と二人の生活が続いていれば幸せである。家内は76歳になる。家内の家系は長寿の家系であるので私よりも長生きをする可能性が非常に高い。私は親しい友人も知人もいない。孤独は既に私の友だちになっている。今は、仕事関連で社会とのつながりがあり、人的な交流があるので完全な孤独ではない。

持病の緑内障が生きる楽しみを奪う

問題は年齢が80歳になり、仕事を辞めたら、何をして人生を楽しむべきかが見えなくなる。同時に心配なことは緑内障である。80歳になる頃には右目の視野が失われている気がする。65歳の今の時点で右目視野の50%が失われているからだ。

視野が狭くなると動きに制約が出てくる。外に出て歩くのがリスクになる。足の筋力があるにしても目が不自由になっていると目で物を見るというよりも体全体で感じながら物を見るという行動になる。普通に見えているものがはっきり見えなくなる生活が生まれる。

できれば、目が見えなくなる前に他界したい。老齢で目に不自由になると自分一人で普通の生活ができなくなる。家内が元気ならば、家内に頼る生活を送ることになる。筋力は鍛えられるが、視力は鍛えようがない。

老化で聴覚、味覚などの五感が衰えて行くと生きる楽しみを失う

聴覚の機能が衰えるとコミュニケーションで問題が起きる。他人との会話ができない一方通行の会話になる。メモを見て声で答えるコミュニケーションになる。80歳代になる老人であれば、視力、聴力、体温調整などで何らかの機能障害が起きている可能性が高い。老化は確実に老人に不自由な生活を強いる。

94歳の義父は、既に聴覚、味覚、体温調整機能で衰えを体感している。彼の生活を見ていると老いて行くごとに今まで楽しんでいたことが失われて行っているのが分かる。65歳の私の体はまだ普通の感覚で普通の生活を維持できているので94歳の義父の不自由さを想像できていない。

老いて行くごとに知らない老いの負担に直面する。歳を取らないと分からないことがこれからどんどん出てくる。身体の老化によって失うものが増えていく。それを是正するには楽しくなることを意識して増やして行くしか無い。

肉体と精神のバランスが良くないと

80歳代の老人の体は、機能低下のため壊れ始める。今まで出来たことができなくなり、普通と言われる活動ができなくなる。体が壊れ始める状態で人生の意味を見つけるのは難しいと私は思う。精神力が強い老人や何か達成しなければならない使命感に支えられている老人ならば、壊れ始めている体であっても生きる意味を見いだせるかもしれない。

五感と健康な体を持っている老人であっても認知症や精神障害などがあれば、生きることの意味を見失う。

肉体も精神も程よいバランスが維持できていないと生きるための意味を見失う。誰もが老化で不自由な生活を送ることになる。不自由な生活環境で如何にして生きがいを見つけるかで幸せを感じる機会が生まれる。老化に負けない、生きている意味を噛みしめる使命感を80歳になったときに持っていれば生きるための意味を噛みしめる事が出来る。

私が80歳になるまであと15年ある。この15年間に何を生きがいに人生を楽しむべきかが問われる。仕事をいつまで続けられるのか、失われて行く体の機能で楽しめることが失わないようにするにはどうしたら良いかなど今から予防策を取る必要がある。

結論

  • 何か生きる目的があれば、それに向かって残りの人生を費やす事が出来る
  • 80歳を過ぎた自分の姿と生活風景を想像してみると「孤独」という文字が全面に出てくる
  • 老化に負けない、生きている意味を噛みしめる使命感を80歳になったときに見出していたい