シニアのささやかな楽しみ方:自分を楽しませる方法を見つける事

毎朝、仕事に出かける時に出会う老人がいる。駅近くにあるスーパーに毎朝買い出しに行っている老人だ。駅に向かう私と買い物帰りの老人とすれ違う。老人の手には、大きいサイズのビール缶2本とおつまみのお菓子がビニール袋に入っていた。彼は、毎朝、スーパーに買い出しに行く。足を鍛えるためにそうやっているのだと思う。

もう、80歳を越えている老人に見える。一人で買い物だから一人で生活をしているのだろう。彼のささやかな楽しみは好きなビールとおつまみのお菓子でテレビを見る事では?・・・と想像している。誰にでも一人で楽しむ時間がある。

年齢が70歳、80歳、90歳になるまでひとり暮らしを始めざるを得ないシニアが増える。ひとり暮らしは寂しい。誰もがそう思う。そんな暮らしが将来の自分を待ち構えていると分かっているならば、何か策を考えてひとり暮らしを楽しむようにしなければと思う。

好きなことがあるシニアは好きな事に没頭すれば良いのではないか。特にこれといった趣味がなければどうすれば良いのか。老後の生活は自分を楽しませることを見つけて、それに溺れることではないか。楽しめることを楽しむという自由が与えられるのは仕事から解放された老後の時間だけである。

最近の楽しみはこんな写真をインターネットで探して眺めることである。見るだけはタダ!

きれいなお尻の形とパンツ

孤独な老後生活に不安を持つべきではない!

60歳代になると子供の教育費と住宅ローンの悩みが無くなる。子供は大人になり、住宅ローンも支払い終わる。同時に貯金額が最低になる。65歳まで一生懸命に働いて貯蓄額を増やす年代になる。

でも、

人生100年と言われる時代になってきたので長生きをするために生活費を稼ぎ続ける必要がある。生活費を稼ぎ続けるには、健康で元気な体を確保しなければ始まらない。いつ他界するか分からないが、残りの人生を出来るだけ楽しく過ごすにはお金と健康は必須条件だ。

遊び仲間は、個人差がある。一人でいるのが好きな老人もいる。何かに没頭する趣味があると遊び仲間がいなくても孤独を感じなくなる。私なんかはその部類の人間だ。新しい人との出会いは老いて来ると極端に減少する。老いた人たちとの交流は、深く入れない。浅く表面的な交流から始まる。人それぞれの人生があるのでその人の人生に深くかかわりたくなくなる。

65歳を過ぎると会社勤めをやめて組織からの束縛から解放される。65歳までにある程度経済的な余裕を貯蓄できていれば、70歳までアルバイトやパートをして働く必要がない。ただ、問題が新しく生まれる。「暇な時間」が急激に増えてくるという問題である。

(卒業は新しい出発点)

new challenge

生活環境が変わると新しい挑戦が始まる。組織から離れると自分一人になる。自主的に何かを始めないと何も起きない。ただ、時間が勝手に過ぎていく生活になる。会社生活では組織がやるべきことを指示するが、その組織を離れた生活では自分で自分自身を指示しなければならない。それが出来ないと「暇な時間」に殺される。暇は孤独を呼び込む。

何かに没頭出来る趣味や仕事がないと誰もあなたのことを気にしなくなる。一人ぼっちの時間を過ごす運命が老後に生まれる。

シニアになると孤独な時間が増える

孤独な老人は話し相手を求めている、その対策は?

私が出勤時に使う相鉄線の駅前にローゼンというスーパーマーケットがある。その横には、駐車場への入口がある。毎朝、交通整理の警備員が1名から2名でその入口で交通整理をしている。入り口が駅へ行くための歩道に面しているため私のような通勤者が多く通るからだ。今日、珍しく警備員が80歳過ぎの老人と会話をしていた。話をしている内容は分からないが、老人は話をしたくてしょうがない様子であった。

警備員は、交通整理の仕事をしながら老人の会話相手をしているのだが仕事に集中できない素振りだ。老人は、警備員の状況を考慮せずに一方的に話し続けていた。警備員は、丁寧に老人のお相手をしている。言葉遣いも丁寧で失礼が無いような返答をしていた。警備員にとっては、話しかけてくれる人もお客様の一人であるという感じなのだろう。

80歳過ぎの老人は何故に警備員に話しかけていたのだろうか?

毎日誰も話をする人が居ない老人たち

デパート内トイレ近くにある休憩用椅子に座っている老人たちを見て思う

多くのデパートには、トイレ近くにお客様用の休憩椅子が用意されている。私もトイレの後にスマホでメールを見るために利用している。何回か利用していくうちに見慣れた老人たちが大勢座っているのに気が付いた。この老人たちは男性が多い。女性はトイレに行ってすぐにその場を離れる。なぜか、シニアの男性が長く座っている。

その姿は、何かぼーっと見つめているような虚無の世界にいるような印象だ。

階段の息切れは老化現象なのか?

平日の通勤で駅の階段を上がり下りしている。駅の改札口に行くためには階段を上がる必要がある。改札口から乗車プラットホームに行くには階段を降りなければならない。この階段を昇り降りする一連の動作でいつも感じることがある。階段の昇り降りをした後に息が次第に切れ始めるのだ。足の筋肉にある酸素が切れて肺に酸素を送れと足の筋肉がSOSを出しているのだと思う。

週二回近くのスポーツセンターで筋トレをしている。スクワット運動は、70キロ 6回x3セットできる。筋トレの運動は、無酸素運動であるので息が切れる事が多い。そんな運動習慣を身に着けていても駅の階段の上がり下りで息が切れる。通常の歩行では早足でも息切れはしない。ウォーキングも10キロ歩いてもちょっと疲れを感じる程度である。その意味で特別な心肺疾患があるとは思っていない。

駅の階段の昇り降りで体験する息切れは老化現象なのだろうか?20歳代の若者と60歳代のシニアでは身体的に違いがあるのは確かである。