65歳になったら仕事を離れて何か別な時間の使い方をする人生が待っている。仕事を70歳まで引き続きできるシニアは働き続ければ良いが、仕事を失い、何か別な事で時間を有効に使う必要がある人がいる。年金生活は、贅沢な生活が出来ない。お金を使わなくても時間を楽しむ遊びを見つける必要がある。
老後の遊びというものがあるのだろうか。遊びに年齢が影響するのだろうか。65歳の私にとって好きな事をしている時がすべて遊びになる。それが仕事であっても遊びになる。
65歳になったら仕事を離れて何か別な時間の使い方をする人生が待っている。仕事を70歳まで引き続きできるシニアは働き続ければ良いが、仕事を失い、何か別な事で時間を有効に使う必要がある人がいる。年金生活は、贅沢な生活が出来ない。お金を使わなくても時間を楽しむ遊びを見つける必要がある。
老後の遊びというものがあるのだろうか。遊びに年齢が影響するのだろうか。65歳の私にとって好きな事をしている時がすべて遊びになる。それが仕事であっても遊びになる。
NPO団体に入会する65歳以降のシニアを見ると友人の紹介が一番多い。65歳になって年金が入ってきて生活に余裕が多少生まれる。仕事探しで必死になる必要もない。自分にあった仕事が見つかればやってみようかという気持ちになる。
NPO団体に入ってくるシニアにはそんな人が多い。別にお金が目的ではない。自分の時間をできるだけ有効に使いたい、仲間を見つけたい、居場所が欲しいなどどいろいろな理由がある。
60歳から64歳のシニアは、生活費を稼ぐというプレッシャーがあるのでお金が稼げないボランティア的なNPO団体に参加する人は少ない。65歳から70歳ぐらいの人が暇な時間をなんとかしたいという理由でNPO団体にやって来る感じがある。
65歳以降から仕事探しで焦るシニアは、自宅に居場所がないためではないか。居場所が自宅外にあると精神的な苦痛は和らぐ。求める仕事が見つかればそれが一番良いのだが、それは理想でしか無い。給与の金額で仕事を探さないならば、面白い仕事が見つかる可能性が高い。
自分の時間を社会貢献という視点で何が出来るかを考えて見てはどうか。NPO組織に自分の居場所が作れれば、余生の時間を有効に使える。
80歳を過ぎた頃、身も心も老化が進んで「生きている意味を見失う」老人が増えてくるのではないかと想像している。知人や友人、そして、伴侶が他界してしまうとこの世に留まる理由が見えなくなる。何か生きる目的があれば、それに向かって残りの人生を費やす事が出来るのだが、そんな目的をもって生きている80歳以上の老人がどれだけいるのだろうか。
長生きは幸せではないかもしれない。生きる目的を失った老人にとっては、幸せが見えてこない。まだ、80歳ではないので本当の事はわからない。
私が80歳になった後の生活や人生観を想像してみる。残りの人生を楽しく生きる意味を見出さないと生きているのが辛くなるのは確かである。子供や孫が増えても一緒に時間を過ごすことが少ない場合が多い。同じ価値観でお喋りができる相手も少なくなる。何かに没頭して時間を使わないと生きている意味を見失う自分の姿が見えてくる。
65歳のシニアの感覚としてApple新製品iPhoneの販売価格が10万円を越えているのに驚く。今使っているASUS製のChromebookでさえ5万円ぐらいだ。ノートパソコンの価格を越えている。パソコン時代を経験している私にとってスマホが10万円台になることが信じられない。
パソコンを使っていないでスマホから入った若者は、スマホの価格をそのまま受け入れてしまうだろう。「ああ、スマホの値段は10万円ぐらいなんだ!」と。パソコンとスマホの領域が重なってきている。小回りがきいて利便性が高いスマホは、徐々にシニア世代に広がっている。特にシニア女性はLINEアプリを通じてシニア男性以上に広がっている。
格安スマホの価格にも幅がある。安かろう悪かろうのスマホ価格は、1万5000円以上から販売されている。最低限の機能で完全に使い捨て用だ。スマホ初心者の入門機器として良いだろう。インターネットの世界にアクセスしやすくなる。
私の知人は5万円以上のスマホを購入した。あまりにも高いと私は思っているのだが、何故なんだろうか。
歳を取って来ているのがわかる。還暦を過ぎたときからその感覚がある。身体の老化に気が付き、気持ちでは若いと思っていても身体の老化を見せつけられると年寄りになって来たと自覚せざるを得ない。64歳の私だが、70歳から80歳代になった時、今と同じ生活ができているかどうか怪しい!
93歳の義父の生活を見守っていると自分の明日を想像させられる。普通の生活が維持できない、健康障害を持ちながら不自由な生活を送る。それが老人の世界だ。
75歳以上の高齢者を一般的に老人と言われるが、身体の不自由を味わい始めたら、65歳以上の人も老人になったと思って良いだろう。
高齢者がリュックを背負って街中を歩いている。彼らのリュックに何が入っているのかは分からないが、私のリュックには、万が一の事態に備えるものがいつも入っている。高齢者は、万が一の事態を考えて外出をしていない。テレビのニュースを見ると異常な豪雨での災害、新型コロナウイルス感染など今までに経験したことがない問題が目に入ってくる。
地球という母船の中で大きな変化が起きている。外出している時に困ることがないように「備えよ常に!」で過ごす必要がある。
高齢者にとっていつも身の回りにあると助かる物を書いてみた。
横浜駅界隈を歩き回って暇をつぶしている老人たちが多い。自宅で一人じっとしているよりも何か刺激を求めて横浜に出てくるほうが楽しいと思うのだろう。老夫婦からお一人様まで刺激を求めて横浜駅界隈にやってくる。そんな老人たちを見かけると一体どこに行くのだろうかと目を向ける。
お一人様の女性は、ウィンドウショッピングを始める。老夫婦たちは、カフェで一服しながら今日1日の予定を練る。または、読書を始める。ランチ時間帯になるとそごうデパートの食品売り場に向かい、お弁当を買う。または、食品売り場にあるお店でランチする。
問題は、歩き回って疲れた体を一休みさせる場所である。横浜駅近くには公園らしき場所がない。老人の足でみなとみらいまで歩いて行くのは辛いかもしれない。最初からみなとみらいにある臨海パークに向かえば自然豊かな海が見える公園を散策できる。ただし、気候が良い時に限る。春と秋。
我が家の朝食は、いつも、パン食。本当は、和食であってほしいのだが家内の都合でずっとパン食である。家内の実家がパン食であった習慣を引き継いでいる。私は、179センチの身長、75キロの体重の65歳シニア男性。この体で食べる朝食の量はこんな感じである。
トースト2枚半、ハムエッグ、インスタントコーヒー1杯、ヨーグルト、バナナ半分、Kiriクリームチーズ一つ。
この量でも午前10時ごろにはお腹が空いてくる。私と同じ年齢のシニア男性は、どのぐらいの量を食べているのだろうか。私は食べ過ぎなのだろうか。いつも、そんな思いで腹八分目を心掛けているが夕食でカレーライスになると制御できなくなる。
体重を75キロから73キロに落としたいと試行錯誤している。一時期74キロまで体重が落ちた。その理由は筋トレの回数を1回から2回に増やして体全体を使う有酸素運動に時間を多く使ったからだ。食べるものも炭水化物のご飯やパンの量を少なめにした。
コロナ禍の悪影響で74キロの体重が元の76キロに戻ってしまった。コロナ太りである。スポーツジムでの筋トレが2ヶ月もできなかった。近くの公園で懸垂やスクワット、そして、50メートルダッシュなどを週1回から2回やっているのだがスポーツジムで消費するカロリーに届かないでいる。
私のような65歳ノマドワーカーは、一般の人の目から見れば奇異に見えるだろう。カフェでパソコンに向かって何かやっているしか分からないからだ。毎朝、定時にカフェにやってきてブラックコーヒーショートを頼んでくる。スタバのスタッフは、不思議でならないのではないか。会話を何度か交わして自分が何者であるかを話したスタバ店長しか分からない。
私はノマドワーカーとしてインターネットの世界で働いているのだが、働いているシニアにカウントされていないかもしれない。暇しているシニアがパソコンをいじっているという見え方でしかない。働いているシニアの姿やイメージは、スーツとネクタイ、そして、革靴という制服を着ていないとダメかもしれない。
65歳を越えて働いているシニアの実際のイメージは、違うかもしれない。私が良く見かける働いているシニアは、建築や工事現場の交通整理員だ。暑い日に道路脇で通行人に挨拶と呼びかけをしている。立っている時間が長い。私は、多分、途中で休んでしまうだろう。
マクドナルドで暇しているシニアと仕事をしているシニアでは後ろ姿に違いを感じる。
65歳で仕事から離れるシニアが多い。60歳代はまだ若いので暇をもてあそぶ。自宅でゴロゴロしていれば、家主の妻が怒り出す。健康のために毎日通勤するように自宅を出てほしいとせがまれる。自宅のドアを開けて一歩踏み出せば、後ろでドアが閉められて鍵がかけられる。
どこに行こうか?
平均寿命も健康寿命も伸びている。老後の生活設計を定年退職前に作っておかないとつまらない老後を送ることになる。平均年齢が80歳を超えていると後10年、20年ぐらいは何かに没頭する時間を持てる。夫婦で色々な公園めぐりをすると必ず本格的なカメラを手にしたシニア男性たちに会う。
彼らはカメラというガジェットを手にして自然相手に遊ぶ。自分が気に入る写真が取れる場所が彼らの居場所になる。写真撮影以外によく見かけるシニアは港にいる。磯釣りを楽しんでいる。魚が釣れそうな海岸が彼らの居場所になる。何か自分を楽しませることがあれば自ずと自分の居場所が見つけられる。