スポーツセンターにやってくる高齢者や横浜の街中を歩いている老人の顔を見ると大体の年齢を想像できる。60歳代前半、後半、70歳代前半、後半、80歳代前半、後半、90歳以上など。
60歳代のシニアは、まだ、体がしっかりしている。顔も初老の顔をして張りが残っている。80歳代から90歳代になると顔は老人の顔だ。体付きも老人だ。誰が見ても老人と判断する風貌がある。
スポーツセンターにやってくる高齢者や横浜の街中を歩いている老人の顔を見ると大体の年齢を想像できる。60歳代前半、後半、70歳代前半、後半、80歳代前半、後半、90歳以上など。
60歳代のシニアは、まだ、体がしっかりしている。顔も初老の顔をして張りが残っている。80歳代から90歳代になると顔は老人の顔だ。体付きも老人だ。誰が見ても老人と判断する風貌がある。
90歳を過ぎると自分の命がいつ終わるか心配になる。いつ、思いがけない時に他界するかわからない。同時に自分の体が日増しに老いてくるのを感じる。そんな思いを義父93歳が私に話してくれた。認知症もいつ自分に発症するかもわからない。
自分が年齢と共に信頼できなくなるというか、自信が持てなくなるようだ。もしかの時に困らないよう、義父が大事な書類や情報を私に託してくれた。義母が介護ベッドにお世話になっているので義父だけでは身の回りの事に対応できない。週に一度、私たち夫婦が家内の両親宅に宿泊して身の回りの世話をしている。
今日もそんな日であった。風呂場、トイレ、家じゅうの部屋の掃除、庭の草むしり、買い物、料理、洗濯、介護製品の調達、義母の話し相手など二人でお世話した。
2025年3月現在、義父は昨年2月に他界。義母は老人ホームで生活をしている。義母の年齢は94歳。既に初期の認知症で会話がおかしい時があるがまだ現実の世界で生きている。月に2回ほど夫婦で面会訪問をしている。車椅子の生活であるが、食欲があり、顔を見る限り普通である。100歳まで生きるかどうか疑わしい。
世代交代が始まっている。義両親が亡くなれば、今度は私達世代が送られる番になる。いつ他界するかは別として。生まれる前の世界に戻る。
こんな言葉をある本で見つけて共感した!
「成功する人間は、自分の力で人生という車の運転をする。成功できない人は、運転を他人に任せ、自分は後ろ席に座ったままでいる。」
この言葉との出会いが、今である。私の人生という車は51歳の時に自分で運転し始めた。今も運転している。50歳までは運転を他人に任せて後ろの席で景色を眺めていた。自分で車を運転できるという自信がなかったし、怖かった。
定年退職後のシニアは人生を他人に任せて生きて行く思考が強い。自分で人生を切り開いていく気持ちがない。人生の選択肢があるのに挑戦していない。人生の自動車は自分で運転しないと楽しめない。行きたい場所に行くには自分で人生の車を運転することである。
何十年も会社という組織で生活をしていると自分の居場所が会社になってしまう。定年退職後に自分の居場所が無くなり、身の置き方に困るのは誰も同じだろう。この時、会社時代に第三の場所を作っていたシニアはラッキーだ。自宅でもない、会社でもない、自分がリラックスできる場所だ。気分がすぐれない時、気力が落ちた時、落ち着きたい時、考え事をしたい時、寂しく感じる時、孤立した時などに自分の居場所を提供する「場」である。
私は51歳の時に組織から離れて一人で仕事をしてきている。仲間がそばにいないと落ち着かないという感覚はない。60歳を過ぎてビジネスへの気力が落ちてくると一人でいることへの不安を覚え始めた。自宅に家内はいるが、自分の居場所が外にない。
マジックミシンと言う洋服直しのお店に行ってきた。お気に入りのジャケットの一部分が擦り切れて穴が空きそうになったからだ。いつも、ジャケットの上にリュックを背負って仕事に出かけている。歩く度にリュックが横揺れして特定の部分が擦れてしまった。
リュックを背負って仕事に行くときいつも困ることがある。それは雨が降ってきたときにリュックの中に雨が入ってくることだ。リュックにはパソコンが入っているのでショートするリスクが有る。過去に一度20万円以上するパソコンを雨でやられてしまった。
重いリュックを背負い続けると肩こりになる。体にピッチリと背負い固定する仕組みがリュックにないとリュックは疲れる。私は新しいリュックを購入する時は必ずチェストベルトがついているリュックを探すことにしている。チェストベルトのないリュックはなで肩の肩からショルダーストラップが落ちやすい。
定年退職後に第二のキャリアを始めるにしても年金生活をするにしてもリュックは必需品になる。外出時にリュックを持っていくのが当たり前になる老後の生活。良いリュックを探して後悔しないようにしたい。
外で仕事をしているとスーパーマーケットで買い物をする時がある。昔と違って多くのスーパーマーケットではポリ袋を有料にしている。私が利用するOKストアでは、自前の買い物袋を持ってくるのが前提になっている。リュックに入る量の買い物であれば、問題がないのだが、時にはどうしても別の袋が必要になってしまう。
ご婦人方は毎日の生活習慣としてバックの中にエコバックを2つ、3つと持ち歩いている。私の妻はいつも3つのエコバックを持ち歩いている。その理由はポリ袋を買わないで買い物をするためである。書くものによって使うエコバックが違う。軽いもの、重いもの、大きいものなど重さとサイズで取り出すエコバックが違う。
スーパーで買物をあまりしないシニア男性は直ぐにポリ袋を買ってしまう。エコバックを持ち歩く習慣がないからである。私は妻の影響でエコバックを1つだけ持ち歩いている。仕事帰りに近くのスーパーで買物をしてほしいと妻に頼まれた時に使っている。
エコバックはシニア男性もいつも持ち歩く時代になりつつある。ポリ袋を買うのは無駄遣い。年金生活では製つ役が基本だからだ。どうせ、エコバックを持ち歩くならば自分にあったものが良い。
感受性が豊かでない私である。好奇心も若い頃と比べると相当少なくなった感じがする。64歳のシニア男性であるが、目を見張るような感動を味わったことがない。一方でテレビを見て涙が出やすくなった。感動して涙が出たと言うべきなのだろうか。それを感動と言って良いのか分からない。
今日も喜ぶべき出来事があったが、心が踊っていない。20歳代の私ならば、きっと声を出して「すげ~!こんなこと初めてだ!」と叫んでいたと思う。64歳の私では、そんな感動が湧いてこない。何故、そんな喜ぶべき出来事が発生したのか?その原因が分かっているからだ。
世代を越えた気楽な対話が若者たちと出来れば、シニアは若者たちから生きる刺激を頂ける。同時に若者たちの価値観も学べる。60歳代と20歳代のシニアと若者が一緒に楽しめる事があるのだろうか。
あるとしたならば、共通の趣味か、スポーツではないか。
私の息子たちは、30歳と27歳だ。息子たちと話をする機会は少ない。食事を家族で一緒にしても会話は家内中心になる。息子たちと会話をするにしても仕事や趣味の話ぐらいしかない。 なんと寂しいことか!
理想と現実
GHOST IN THE SHELL(攻殻機動隊)の実写版映画を今日見てきた。今日が公開初日である。SF映画好きなシニアが大勢来ていた。アニメ・マンガの実写版は、昔から上手く映画化出来ていなかったがこの映画は、CG技術がうまく使って上手に映画化が出来ていた。
サイボーグ化(義体化)する私達の体
62歳になって自分の生活をシンプルにしようと考え始めた。まず、やり始めた事は、銀行口座の整理である。口座を作って使っていない通帳が多い。取り敢えず、大手銀行に対して一つ口座を残している。みずほ銀行、三井住友銀行、三菱UFJ銀行、りそな銀行、ゆうちょ銀行など。それぞれの口座は用途別に使っている。
問題は同じ銀行に複数の口座があること。使っていれば良いが使っていない。そこでこの問題を整理した。使っている銀行口座だけにした。使っていない口座は全て解約。衣食住と言う視点で自分の生活をスリム化しようとすると住居内にある物を整理することになる。
何が満たされていて、何が余剰な物であるかを明確にすることで処分する物が見えてくる。60歳を過ぎたら日常生活で使っていない物を整理する時期になる。知らないうちに出番を失った物が自宅に累積して行く。夫婦二人の生活で日常的に使う物は限られる。
衣食住が満たされていれば、基本的に問題がない生活が出来る。無駄が多い生活を見直す良い機会になる。